長い間、私は物事を「正しいか、間違っているか」という基準で見ていました。
それは人に対しても、自分に対しても同じでした。
この考え方は、誰かに教えられたものでもあるかもしれません。育った環境や社会通念、常識、経験の積み重ねによって、知らず知らずのうちに身についた価値観だったのでしょう。
しかし最近になって気づいたことがあります。
それは、「正しい」「間違っている」という判断は、他人が決めているようでいて、実は自分自身が決めている部分も大きいということです。
もちろん、社会にはルールがあります。法律もあります。学問には答えがあり、物理現象にも一定の法則があります。
しかし、人の心や価値観、生き方までを単純に正解・不正解で分類できるのだろうかと考えるようになりました。
ある人にとっての正しさは、別の人にとっての間違いかもしれません。
ある人にとっての間違いは、別の人にとっては意味のある選択かもしれません。
そう考え始めると、自分が今まで「間違っている」と思っていたことも、本当にそうだったのか分からなくなります。
そして、自分が「正しい」と信じていたことも、ひとつの見方に過ぎなかったのかもしれないと思うようになりました。
振り返ってみると、私は多くのことを自分の物差しで測っていました。
正しいか、間違っているか。
良いか、悪いか。
あるべきか、あるべきでないか。
そして、その物差しは他人に向くだけではなく、自分自身にも向いていました。
特に、自分の中にある感覚や個性に対しても、無意識のうちに「これは正しいのだろうか」「これは間違っているのではないか」と判断を下していたように思います。
しかし、その判断そのものが、自分自身のフィルターによる解釈だったのかもしれません。
そう思えたとき、不思議と心が軽くなりました。
人を無理に評価しなくてもいい。
自分を無理に評価しなくてもいい。
正しい人になろうとしなくてもいいし、間違った自分を責め続ける必要もない。
ただ、その人はその人であり、自分は自分である。
そこに理由や評価を付け加える前に、ただそうであるという事実があるだけです。
私たちは知らず知らずのうちに、人を分類し、自分を分類しています。
あの人はこういう人。
私はこういう人。
これは正しい。
これは間違っている。
しかし、その分類そのものが、実は自分の解釈によって作られたものなのかもしれません。
もちろん、社会を生きる上でルールや基準は必要です。
けれど、人の心や人格、生き方までを単純に正しい・間違いで裁くことは、本当にできるのでしょうか。
私は最近、それは少し違うのではないかと思うようになりました。
人も、自分も、世界も、思っている以上に複雑です。
だからこそ、無理に裁かず、無理に分類せず、そのままを見る。
正しさや間違いという物差しを少し横に置いてみる。
すると、今まで見えなかった景色が見えてくることがあります。
そして、その先には「正しい自分」も「間違った自分」もなく、ただ自分がいるだけなのかもしれません。
私は今、そんなふうに思っています。